をときどき摘まみ読みしている。
このなかで「傀儡子で武士とは当節珍しいことだな」という文章があった。
別の章では「当代の武士に忠義の観念がないのと同様である」という文章もある。
(下線はブログ執筆者)
一般的に、「当時」という言葉もある。
さて、どう違うのであろうか。などと考え込まずとも、拙は(多分)正しく使い分けています。感覚です。扇子です。団扇です。
いや、まあ……
まず「当時」。これは、令和から昭和を振り返って「当時は毛が見えなければ猥褻でなかった」とかいうふうに過去を振り返る意味を内包しています。
対して「当節」は、「当節では、猥褻云々どころか、自動車ポルノなどと摘発される」と、現在を語ります。念のためにいえば、物語の部隊が大隊なら……物語の舞台が大正なら、大正が対象です。
さて「当代」。これは濠門長恭クンは時代劇でしか使いません。ニュアンスとしては「当節」です。小説を書いていて使いたくなったらネット検索しますが、今はしません。
こういった、似ている言葉の使い分けは、間違ったら馬鹿にされるものがあります。「鞭」は紐の外延です。「笞」は棒の外延です。ただし、『乗馬鞭』と表記するのが一般的です例外です。こういうことに無知だと、りっぱなエスエム小説は書けません。「亀甲縛り」と「菱縄縛り」も同様です。
脱線まではしなくても分岐しかけました。
「取る/執る」の使い分けも難しいです。「付く/着く」も同じ。濠門長恭クンも、この辺りは脳みます。心(感覚)でも間隔が取れません。
別の言葉(主として漢字熟語)に言い換えたとき、どちらの字を使うかで判断すればおおむね間違えませんが、「付着」なんて例もあります。
こういった言葉の使い分けが気にならないくらい「読ませる」話が書ければ、それに越したことはないんですけどねえ。
